ジャッジを辞めると世界は優しくなるのだろうか?
ジャッジを辞めると世界は優しくなるらしい。
これって本当か?!
「ジャッジを辞めたらいいよ」って
よく聞きませんか?
パッと聞くと「ああ確かに〜」と
思うところもあるんだけど、
敢えて本当なのか?という視点で考えてみました。
「ジャッジ」とは?
「自分の価値観で他人や物事の
良し悪しを勝手に決めつけること」
と定義しておきます。
例えば
・自分の価値観で上下関係を決める
→正社員はすごい、アルバイトはしょぼい
・自分の価値観で人を判断する
→Aさんは冷たい人、Bさんは優しい人
・自分の価値観が全てだと思う
→今だと自粛しない人はバカだとか
自分の価値観だけで決めつけて
判断してしまうので、
どっちかというと限定的だし、批判的。
↓
相手からの意見にも敏感になるから
どんどん自分が苦しくなる。
↓
なので自分からジャッジはやめましょう!!
という流れです。
わかるわかるって感じになりませんか?
まあ確かに人間関係においては
「人をジャッジしたらいけない」
「決めつけてもそれが全てではない」
っていうのはわかります。
だけど、それが
「仕事です」
「今後やっていきたいことです」
ってなった時には
敢えてのジャッジって必要だ
と思うわけです。
「なんでもいい」わけではない世界
ジャッジしない=なんでも受け入れよう
みたいな感じになっていると
「なんでもいいよね」ってなりがちなんだけど、
個人的には「なんでもいいわけないだろ!!」
って思うわけですよ。
ジャッジしない考え方は素晴らしいかもしれないけど
全てに当てはまるわけではない。
これを全てに当てはめようとしている人が多いと思う。
仕事とか他人を巻き込んでやっていくことって
様々な価値観にジャッジされて
否定され
批判され
論議され
時には評価され、感謝され。
ジャッジという評価があるからこそ
ブラッシュアップできるもの。
そうでないと良い商品も良いサービスも
どんどん生みだされないです。
ある意味、価値観と価値観のズレを
ぶつけるからでてくる産物なわけであって
それもいいよね〜
それも悪くないよね〜
ってやってたらいいものは産まれないわけですよ。
重要なのは「ヒト」に向けられてるかどうか
いろんなことに対して思うのだけれど
重要なのはその意見を
ヒトに向けているのか
モノゴトに向けているのか
で全然違ってくるということ。
「Aさんがクラウドファンディングをやりました」
という時に、
①Aさんは間違っているというのは
ヒトに向けている
②クラファンの内容に対しての賛否の意見は
モノゴト向けている
②を伝えたいために①で伝えてくる人
②で伝えたのに①で捉える人
なぜか人は自分が否定されたと
受け取りやすいし、
モノゴトでなくて
人を批判しがちになるよね。
結論
ジャッジを辞めることよりも
ジャッジをしてることの
正当性の証明を考えてみたら良いのです。
そこで証明できなかったら
事実を知ればいいだけですから。
自分への思考も働くし、
相手の意見も受け入れやすくなるんではないかと。
「ジャッジを辞めた方がいいから辞めます。」
「人をジャッジすることを辞めます。」
って宣言する人って
単なるポジティブシンキングで
結局、何も変わりません。
それこそ出てくる感情に蓋をして、
綺麗な言葉に置き換えてるだけで
意味あるのかなぁ?とさえ思います。
僕らは神ではありません。
・マジないやー
・ほんとうにかわいそう
・もっと上にいきたい
・もうこれより下にはいきたくない
いろんなことを周りと比べて評価して
だからこそ自分のより良い未来に向かって
成長しようと試みる生き物です。
『ジャッジしてるかしてないか?』
ここに囚われている限りは
結局、狭い世界にいるということに
気が付いた方がいいです。