内観しても意味がない
そもそも自分は何でできているのか?
を把握すると
ただただ内観をするということには意味がないという結論に繋がります。
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僕は何かしらのアクションが行動が伴わない「内観すること」「自分と向き合うことにはあまり意味がないと考えている派です。
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目的にもよりますけど、だいたいの人が「本当の自分」を探しにいく。
もしくは、「本当の自分がやりたいこと」を探しにいく。
という目的のために内観したりするわけですが「本当の自分」って今の自分でしかありません。
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多くの人はどこかに「本当の自分」がいるという希望なりを求めていると思うんですが、自分は自分でしかないんですね。
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残念なことに「希望している自分の姿」っていうのは未来にあっても過去にはない場合が多くて、仮に過去にあったとしても、それは今は失われたものであって、過去の栄光をもう一回取り戻すには未来に栄光を掲げるしかないんですね。
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「内観しましょう」シリーズはビジネスの中でもBEST5に入るよう売れ筋コンテンツだとは思うんですが、
それらが望む結果を出す条件としては
「内観→行動→フィードバック」
というSTEPが成り立つ場合においてのみなんですね。
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それゆえに
講師がいる講座型コンテンツとかは内観要素が強くても、
それを踏まえて行動させる、もしくは自分以外からのフィードバックがある
ということで望む結果を得られる場合もありますが、
自分で深掘りするものに関してはほとんど意味をなさないかなと思います。
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寧ろ、内観にハマると人間は鬱になる生き物だと思っていて
「今の現状に満足いかない」
「今の現状に不安を抱えている」
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という状態で内観をするっていうのは、自分の中のマイナスな内省言語だったり行動をさらに加速させて増幅させるっていう最悪な自虐行為なんですね。
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ひと昔前だと「自分探しの旅に出る」ってことバックパッカー的な人も多かったですが、旅にでて「自分と向き合う」と、結局どこにいても自分は自分でしかないという絶望的な結果に打ちのめされるだけで
「旅に出ても変化しなかった」
っていう結果になりがちです。。。
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逆に「自分と向き合う」ってことをせずに、目の前にやってくることにトライして、様々な経験をしてくると、なんだか新しい自分に出会ったような気になれます。
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前者は場所を変えてただ自分を内観する。
後者は「内観→行動→フィードバック」のSTEPが成り立っているという違いがあります。
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そもそも自分は何でできているのか?
物理的には様々な細胞の集合体で成り立っているんですが、
ここでは情報空間において自分という概念が成り立っていると仮定したいと思います。
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極端ですが、自分だけ存在していたら比較するものが何もないので、そもそも内観モードっていう状態にはならないと思うんですね。
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僕たちは常に情報空間の中に身を置くからこそ時に迷ったり、時に悩んだり、逆に喜びや、満足感を得られるんだと思います。
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ということで、「自分は情報でできている」と定義するとそれらの情報は周りの人たちからやってきます。
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・Aさんの中に存在する僕
・Bさんの中に存在する僕
・会社の中に存在する僕
・家庭の中に存在する僕
などなど。
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自分の周りにありとあらゆる人間関係があってそれらを結んだ中心の概念を
僕たちは「自分だ」と思って信じて疑いません。
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特に日本では集合意識というものが働くので、わざわざ意識しなくても周りの環境に合わせた多少なりとも周りが求める自分を演じるということになりかねないなと思うわけです。
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そういう前提に立つと、「自分を探す」「自分と向き合う」ということは
自分自身を見つめること、自分の過去の行いを見つめることよりも自分を取り巻く様々な人たちとの関係性をどう変化させるのか?に尽きるのかなと思うわけです。
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海外に行くと感じるのが「自分を知っている人が全くいない」という解放感です。
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自分を知っている人がいないと「周りの情報が固定する自分」というものがいなくなります。
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それ故に「自分と向き合う」ということを敢えてしなくても他者という情報を介さない自分に出会うことになります。
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また、僕には結婚しているパートナーがいますが、いまだに両家の親が結婚していると事実を明確には知りません。
相手の親に限っては僕の存在自体知らないでしょう。
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「結婚」っていう概念は面白いもので周りが知らない限りはその関係性を「配偶者」というカタチで見なされることも求められることもほとんどありません。
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結婚している事実を知らないので、どちらかの実家に帰ることもなければ年末年始やお盆など季節ごとに行われる挨拶もありません。
将来の子供のことを聞かれることもなければ、旦那、妻という社会的な概念に囚われることもありません。
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逆に「結婚している」という事実だけで社会的に求められることは多数です。
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すべては自分を取り巻く概念の中に自分が入り込むことで成り立っています。
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逆を返せば、そこに内観して入り込むことではなくその外側に出た時に初めて自分というものに出会うことができるのだと思います。
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内観する目的にもよりますが、自分を取り巻く情報空間の外側に出る方が求めている目的を果たせるのではないか?という仮説でした。
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